Neutral 〜ニュートラル

50歳のうめめだかが感じたことやオフタイムのこと、好きな物のこと、趣味etcについてひとりごつ。  SINCE 2005.7.12

追憶・原子力発電所のこと

私が小学校5,6年のころの話です。1985年くらい。そのころは週休2日でなく、土曜日は半日昼食なしで学校は終わりでした。いわゆる"半どん"ってやつです。その頃、専業主婦だった母が仕事を再開していたので、(同居していた祖母はそのころの1,2年、伯母の家に行っていたらしい)土曜の午後 、私は一人で留守番をときどきしていました。そんな自由に過ごせる土曜日がくるのが楽しみでした。土曜の午後はたしか13時くらいから17時までTBSラジオ久米宏さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組を聞きながら、ゆっくり過ごすのが子供ながらに楽しみでした。たしか映画コーナーではおすぎとピーコ、中継では毒蝮サンダユウ(ウルトラセブンのフルハシ隊員)が出ていたような気がします。15時までは毎回何かテーマがあり、そのテーマに沿った話がすすめられていました。ある回でテーマが『死の灰』に関わるテーマだったときがありました。まるではじめて聞く内容で、興味深いものでした。
名優ジョンウェインは死の灰によって亡くなったと言われていることもでてきました。そのときにもちろん原子力発電所の話もでて、その危険性についても議論がなされていました。私は学校の社会の教科書をさっそく開き、その話を確認してみたのです。その教科書によれば、その当時の日本の電力割合は火力が中心で、原子力は0.1%未満でした。ラジオの話のとおりでした。子供ながらに増えてほしくないと思ったし、その後危険性の議論はその建てらる場所の反対運動を通してしか、あまり伝わってこなかった気がします。いえ、私が子供すぎて、聞き流していたのかもしれません。

そんなこともすっかり忘れて、私が青春を謳歌して大人になる間に、いまや原子力の割合は全体の25%ちかく。気がついたときには今のこの現実です。気がつけば、そのときに小学生だった私は、40を前にした一端の大人です。無関心でいた自分に少しあきれます。早くからわかっていたのに。福島で起きていることは他人事ではないんだと思います。

これが私の原子力についての追憶です。

被災地の皆様にはこころよりお見舞い申し上げます。常に被害に合われた方に気持ちを寄せて、自分で出来る限りの協力をします。

放射能汚染の影響がじわりじわりと出始めています。情報が錯綜しています。それでも、子供がいると用心に越したことはないと思いますが、すでにミネラルウォーターも手に入りません。

地震があり、同じ行政区の町で家屋の損壊もあり、千葉とはいえ被災地になっているエリアが近辺にあります。私は地震の3月11日は会社で埼玉の実家にいたため、なんとか4時間歩き、たまたま通りかかったバスに乗れ、5時間ほどはかかりましたが実家につくことができました。子供のことが心配だし、電話はつながらないままに、充電はなくなるし、参りました。
実家から自宅に帰ると食器は3分の1は割れました。足の踏み場のない状態に言葉を失いました。それでもいま多少の不便があっても、普通に生活できることを有り難く思います。

地震で、放射能で、非常事態の毎日に何か見失いそうになることがあります。それでも、少しずつ今まで積み重ねてきたことをさらに積み重ね、いままでしてきた文化的な活動もけして無意味ではないと思いたいです。

これは自分自身にむけて。