Neutral 〜ニュートラル

50歳のうめめだかが感じたことやオフタイムのこと、好きな物のこと、趣味etcについてひとりごつ。  SINCE 2005.7.12

”バベル(BABEL)”見ました

BABEL”を見たあとに出た言葉は「参ったな。」と言う言葉。

友人の前評判で、前のほうの席だと見たあとに気持ち悪くなると聞いていたから、後ろから2列目の席を確保して、この映画に臨んだ私。すごく楽しみにしていたけれど、その前評判で「どうなのかな、この映画。」と思いながら、足を運んだのだけど...。

300pxbruegheltowerofbabel 「参ったな。」

深い命題を突きつけられた感じ。どうにもならないこんがらがった糸を解けといわれたような。

バベルを見る上で本当は旧約聖書の”バベルの塔”の章を読んで行きたいと思っていたけれど、私にはもっと優先するべき、たわいもない事柄が多くて、それはかなわなかった。

”遠い昔、人々は、ひとつの言語を話していた。神に近づこうとした人間は、天まで届く塔を建てようとしたが、神はその傲慢さに怒り、言葉を乱し、世界をバラバラにしてしまった-旧約聖書の創世記に登場するバベルの町の物語は、その後、混乱の象徴となった。”(雑誌FIGAROの映画”BABEL”の解説から)↑絵はウィーン美術史美術館のピーテル・ブリューゲルの”バベルの塔

その旧約聖書の”バベルの塔”の意味合いを少しでも理解して、映画を見ると見ないでは、大きな差が生じると思う。そういう意味ではユダヤ教であるとか、クリスチャンの人たちのそういう世界観を理解する人たちの方がわかりがいいかもしれない。

この映画の中で、モロッコ人、メキシコ人、アメリカ人、日本人という複数の人種の人々が対照的に照らし出される。

例えば、銃弾に撃たれたケイトブランシェット演じるアメリカ人女性とたまたま無邪気にライフルの引き金を引いたモロッコ人の幼い兄弟。

ブラピ、ブランシェット演じるアメリカ富裕層の夫婦の家で働くメキシコ人家政婦とその甥でアメリカ国境でいわれもなく必要以上の検問を受けるガエル君演じるメキシコ人青年とそのアメリカ人夫婦の2人の子供たち。

バベルの末裔として隔てられた人々だけでなく、同胞でありながらも理解し合えない人々として、手話という言葉を持つが気持ちを伝えられない菊池凛子演じる聾唖の日本人少女と、銃弾に撃たれた妻と必死に付き添う夫を見捨てるマメリカ人ツーリストたち。

それらが絡み合う映画。映画でないと表現の出来ない世界だと思う。

それぞれの文化を持つ民族とそれらを隔てる言葉と国境。命の重さや人への尊重は同じでなければいけないはずなのに、事実ある格差。-まさに隔てられたバベルの末裔たち。

現実として、いまの世界は先進国からみた発展途上といわれる国の人々に対する尊重が同じ比重ではないのではないかというところをメキシコ人のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督はうまく表現していると思う。そういう暗黙の了解のような世界観の中でもはるかに人間らしく生きている人々が映し出される。

例えば、銃弾に撃たれたアメリカ人の妻とその夫を見捨てずに尽力し、別れ際に夫が渡しそうとした金を受け取ろうとしなかったモロッコ人ガイド。

アメリカ人夫婦の2人の子供を守るために必死で助けを求めたのに、不法滞在と不法越境で強制送還されるメキシコ人家政婦。

理解されないという不条理さが心を重くする。隔てられたバベルの末裔たちは理解しあえないのだろうか。なんだか完結するという感じでなく映画が終わり、自分の中でもどんな風に考えていいものかも答えが出ないような映画だった。

それぞれの悲しみが押し寄せる。無数の悲しみを見てしまった気がしてならない。

「参ったな。」とつぶやく私。

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この映画に対する感想は、何でも物事を掘り下げすぎてしまう私の悪い癖が含まれているということを差し引いて読んでもらえればと思います。自分の中でもまとまらないこの映画についての感想をそれでも自分の言葉で書きたい気がしてこれを書きました。

ほんとに参りました。