Neutral 〜ニュートラル

50歳のうめめだかが感じたことやオフタイムのこと、好きな物のこと、趣味etcについてひとりごつ。  SINCE 2005.7.12

読み終わりたくない本

先日、近所のショッピングセンターの本屋で村上春樹の『遠い太鼓』を買った。

通勤の電車の中で読んでいて、「村上春樹は、やっぱりお金を出してでも買う価値がある作家だわ。」と思う私だった。それに前にも書いたけど、村上春樹みたいな人と結婚したいと思う。(いまではない。生まれ変わったら。)いや、村上春樹が描くような男性と、と言うほうが正確かもしれない...。

なるべく、家の中の荷物を増やさないように、図書館で本を借りる私だけど、たまに手持ち無沙汰なときに文庫本を買ってしまう。そんななかで大方は、あっという間に読んでしまって、こんなことなら図書館で借りればよかったなんて思うものも多い。

ここから本題に入ると、この村上春樹の『遠い太鼓』は1986年からの3年間、村上春樹(正確にいうと村上夫妻)がヨーロッパで暮らした時のことが描かれている。この期間に長編では『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』と短編では『TVピープル』を書いたという。

ノルウェー~』は高校時代に初めて読んだ村上氏の本だし、『ダンス~』は私の中で上位にランキングされる本なので、その頃の彼の暮らしぶりになんとなく興味津々だったのだ。

そして読んでみるとすごく面白い。不覚にも電車の中で笑ってしまう始末。かなり怪しい私...。

エピソードはとっても面白いが、40歳を目の前にした37歳の彼がこの旅に出ようと思った心境が冒頭に書かれているが、それはかなりはっとさせられる内容だ。

《以下本文引用》

 四十歳というのは、僕にとってかなり重要な意味を持つ節目なのではなかろうかと、僕は昔から(といっても三十を過ぎてから)ずっと考えていた。

<中略>

 四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくこのなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。試してはみたけれどやはり気に入らないので、もう一度以前の状態に復帰します。ということはできない。それは前にしか進まない歯車なのだ。僕は漠然とそう感じていた。

 精神的な組み換えというのは、おそらくこういうことではないだろうかと僕は思った。四十という分水嶺を越えることによって、つまり一段階歳を取ることによって、それまでは出来なかったことができるようになるかもしれない。それはそれですばらしいことだ。もちろん。でも同時にこうも思った。その新しい獲得物と引き換えに、それまで比較的簡単にできると思ってやっていたことが出来なくなってしまうのではないかと。

<中略>

歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳はとる。それはしかたのないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終ってしまうことだ。それは仕方のないことではない。

 はっとさせられた。それは高名な作家でも何でもない私にでさえ「たしかにそう思う。同感だ。」と感じさせてしまう言葉だった。いま読み途中だけど、これがただゲラゲラ笑って終わるとは思えないし、どんなことをまた、はっと最後にさせられるのか、今からドキドキする私である。村上春樹はそういう期待を裏切らない作家なのだ。

 人は楽しく過ごしているときにこのまま時間が止まってしまえばいいのに、と思うものだけど、この本を読みながらゲラゲラ笑いながら、(今まで彼の小説を読んでもさすがにゲラゲラ笑うことはなかったけど)この時間がもっと長く続けばいいのに、読み終わらなければいいのにって本当に思う。それぐらい、読み心地のいい本なのだ。

やっぱりすごいわ。村上春樹