泣く大人
3月1日の映画の日には”4ヶ月、3週と2日”を見に行き、今日は水曜だから”アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生”を1,000円だからという理由で1人、見に行った。前者はルーマニアのチャウシェスク政権下の話で、暗くて、当時のルーマニアという社会が許せない感じで、なんとなく後味の悪さを感じた。後者は途中眠ってしまった。映画館で眠ったのは”たまごっち”ぶり。
プランタンの地下のビゴの店でバタールを買って、帰ってきた。ついこないだまで勤めていた会社の近くに行くというのはなんとなく寂しい気持ちになるものだ。
家に帰ってきてから、古本屋で買った江國香織の『泣く大人』(エッセイ集)を読んだ。中盤 ”Ⅱ男友達の部屋”以降から面白くなった。(以下斜体本文引用)
”得難い、男友達”の中から
定義づけるとしたら、男であり、友達であり、なおかつ「男の友達」ではない人々、と言うことになる。得難いのも当然といえよう。
どうでもいいことではあるのだが、苦手な男について書いてみよう。
具体的に思い浮かぶのは四種類だ。
●仲間好きな男
●児童文学作家志望の男
●言葉を正確に扱えない男
●定形でしか物を考えられない男
ああ、いやだ。書いているだけで憂鬱になる。
妙に納得してしまった。仲間好きな男、私もあまり好きでない。私だってサークルくらい入っていたことはあるが、自分の男友達がそういうサークルを自慢げに話す、仲間に会わせたがりな男だったら敵わないと思う。
本文で、”仲間好きな男の傾向として、お酒好きなこととアウトドア好きなことがあげられる。ただし、酒量もアウトドアの実力も、たいしたことがないのが特徴だ。” と江國さんは書いていて、そのとおり!と言いたくなった。大体、中途半端なアウトドア好きにろくなやつはいないと私も思う。やるなら本格的にやれと思う。
2,3番目はパスして、”定形でしか物を考えられない男” というもの、くだらないと思うようになってきた。クリスマスは洒落たレストランでというのも、どうでもいい。
”タブー” という話の中で、”男友達と恋人の違いは肉体関係の有無ではない。” と書きづらいところを江國さん、よく書いたと思った。さらっと書いている。そのあと、タブー。(男友達との関係においての)として”私の場合、それは行楽地に二人でいくことだ。真夏の海とか、遊園地とか。それから億劫な買い物も。” と書いていて、確かにな、って思ってしまった。男友達と真夏の海には行かないし、億劫な買い物も行かない、遊園地なんてもってのほか、と私も思った。”定形でしか物を考えられない男” というのはすでにこのタブーには耐えられないだろう。
まさに江國さんがこの本で書くとおり。
友達を持つという贅沢は、大人にだけ許された特権のように思う。ことに男友達を持つことは。
後半は江國さんの読んだ本のことが書いてあって、これも興味深い。暇つぶしにと思って買ったけれど、なかなか楽しめました。江國さんの形にとらわれないところが素敵だと思った。
この本のあとがきにあるように、
私は「泣く大人」になりました。
実際の行為として泣くかどうかはともかく、大人というのは本質的に「泣く」生き物だと思います。「泣くことができる」と言った方が正確かもしれません。それはたぶん、心から安心してしまえる場所を持つこと、です。
私は「泣かない子供」だった自分をすこし心強く思いますが、「泣く大人」になれて嬉しい。
※『泣く大人』は『泣かない子供』というエッセイ集の5年後に書かれました。
先日、私の男友達が最近、センチメンタリズムを我慢してると言っていましたが、彼も心から安心してしまえる場所を持ったのかもしれません。そんなことを思った私でした。