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50歳のうめめだかが感じたことやオフタイムのこと、好きな物のこと、趣味etcについてひとりごつ。  SINCE 2005.7.12

片岡義男の物語的な生活、わたせせいぞう時には鈴木英人的な風景

子供の頃、この題名通りの生き方をしたいと思った。”片岡義男の物語的な生活、わたせせいぞう時には鈴木英人的な風景”。いまでもそれは変わらない。人間はそうそう簡単に考えをチェンジはできない。

子供の頃といっても本当のガキではない。小学校高学年から高校生くらいだと思う。特に中学生の頃、必死に読んだのは片岡義男だった。あれだけ読んだ角川文庫の片岡義男の文庫本が今となってはまったくと言っていいほどこの世の本屋から消えたのは私にとって不思議なことだった。私が一番読んでいた頃、まだ子どもだったから、文壇の中の片岡義男のポジションを知らないし、どんないきさつがあって角川文庫の片岡義男の本が本屋から消えたのか知らないが、素人考えだけどそこには何かの摩擦があったのかもしれないと私は考えてしまう。

Amazon.co.jpを見てみても私が必死に読んだ”湾岸道路””彼女が風に吹かれた場合””美人物語””マーマレードの朝”など他にもたくさんの作品があったが今では古本市場での流通が中心で新書での販売は少ない。今私は片岡義男の”青い色の短編集”という単行本を図書館で借りて読んでいるがこれもあのバブルの時代頃に増産された文庫よりも後の時期に書かれたものだ。後の時期にかかれたものは単行本として今でも本屋や図書館で見かけるのに文庫本は姿を消した。

片岡義男の小説はある意味あの時代(バブル以前からバブル頃)に合っていたし、あの小説に描かれるクールで美しい女性たちに、子どもであった私は憧れずにはいられなかった。バブルがはじけてみんなが我を忘れて仕事をしている間になくなった片岡義男の角川文庫の文庫本。どこに行ったんだろう。まるであの時代がなかったかのように記憶から忘れ去られたあの文庫本たち。私には不思議でしょうがない。

プラス自分のイメージの中にいっしょくたになってわたせせいぞうの描く物語と当時定期的に購入していた「FM Station」という番組ガイドの表紙となっていた鈴木英人の風景が私の中で生きている。

そうやって”片岡義男の物語的な生き方に憧れ、わたせせいぞうの風景の中に生きたいと思い、時には鈴木英人の異国の香りのする風景に憧れる”私のような夢見がちな人間が形成されたのだ。それは偶然でなく必然に。

でも今日の私は北千住で飲んだくれたただの女だった。

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